■■■ミッシェル・プラティニ■■■
プラティニである。何がって無論俺の最も好きなプレーヤーである。
82’スペインで見せたそのエレガントなプレーは私を虜にした。
ああいう気の利いたプレーはもろ俺の好みなのだ。ちなみにドイツの
無骨なプレーはあまり好きではない(強いのは分かるが面白味に欠ける)。
しかし当時は欧州サッカーの情報が少なかった為、次に彼のプレーを
見るのは二年後のことだった。
84’ヨーロッパ選手権フランス大会。
二年間の間に彼は世界最高峰のイタリアのセリエAで揉まれ更に巧く
更に凄みを増し欧州最優秀選手という称号まで手に入れていた。
そして彼を中心とする地元フランス代表は桁外れに強く、美しいチームとして
大会を制した。
相手もマークしてる筈なのにいつの間にかフリーになっていて時にはドリブル
時には必殺のスルーパス、そして何より最高のゴールゲッターだった。
この84`欧州選手権は勿論、セリエAでも何度も得点王を獲っている。
決してヘッドが強いとか足が速いとかってわけでもないのに・・・・
いや、彼にはフリーキックという最高の必殺技があった。
当時は左のマラドーナ、右のプラティニって感じだった。
(ジーコも凄かったけどね)
85年年末トヨタカップに遂にプラティニが来た!
イタリアの名門ユベントスを率いて。
試合は2−2で延長の末PK戦でアルゼンチンのアルヘンチノス・ジュニアースを
下した。
試合結果よりも何よりも内容が素晴らしかった。
現在とは違い当時の国立競技場は芝も茶色くお世辞にも良いグラウンドとは
言えなかったが両チームとも素早い攻守の切り替えで魅せてくれた。
そんな中でもやはりプラティニは違った。
俺の母親は無論サッカーなんかいつも見ない、それでも茶の間でトヨタカップを
一緒に見ると「この人格好いいわね」等とのたまわせる程であったのだ。
最大の見せ場はオフサイドと判定され幻のゴールとなったあのボレーである。
まあ、知らない人は年末にトヨタカップを見れば必ずハーフタイムに流される
からご覧下さい。
この試合で日テレは何を考えたかプラティニカメラなる物を設置して、一台の
カメラがプラティニを追い続けた。
結果は大成功と言っていいだろう。 プラティニは試合中実に様々な表情を
見せるのだ。喜怒哀楽、次々と移り変わる表情、しかもそれが絵になるのだ。
アンチ日テレの私だがこの時ばかりは日テレに拍手を送りたいと思った。
ちなみにこの試合はビデオで少なくとも10回は見てるなー。
86’W杯メキシコ大会
この大会はプラティニの最後の大舞台だった。
プラティニ自身は足首に怪我を抱え決してコンディションは良くなかったが
チームメイトには恵まれていた。
現在でもフランス代表のアキレス腱と言われる前線の点取り屋不足というのは
あったが。
一次リーグの首位はソ連に譲ったものの7〜8割の力で難なく突破、決勝
トーナメント一回戦でもディフェンディングチャンピオンのイタリアを難なく
一蹴。
そして準々決勝、この大会で最高の試合を繰り広げる事となる相手は
王国ブラジル。 ブラジルは体力に勝っていたがパスワークではフランスが
上回っていた、文字通り一進一退の攻防はPK戦にまでもつれ込む。
このPK戦でプラティニは得意なはずのPKを外した、しかし次に蹴った
フェルナンデスが勝利を決めると爆発したプラティニの喜びの表情は今でも
忘れられない。
しかし次の西ドイツ戦で4年前というかフランスの勝負弱さを見せつける
事となろうとは・・・・
戦力も試合内容も完全にフランスが上回っていた。
しかしブレーメのFKをフランスGKバツが捕り損ない先制点を奪われると
落ち着きを無くし、圧倒的に攻めていながらも点が取れない。
そして更に焦る、という悪循環に陥り、遂にはカウンターから追加点を
奪われてしまうという残念な結果に終わってしまった。
プラティニを擁するフランス代表は間違いなく優勝するだけの戦力があった
しかしそれだけでは勝てないのがサッカーなのだろう。
3位決定戦にプラティニは出場しなかったがフランス代表はベルギー代表を
一蹴した。
32歳、まだまだやれるプレーを見せていながらプラティニは引退した。
その後フランス代表の監督を務めたりもしたがやはり大きなタイトルを
獲ってはいない。
あ、ちなみに俺の入ってる野球チームでの背番号は勿論
10
番、名前の所には
PLATINI
と書いてある。
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